気の緩みからか、世界中で再びコロナの感染が広がっている。自分が守らねばならいことはわかっているはずなのに、何故自分だけは大丈夫と思ってしまうのだろう。今までは日本人が日常的にもマスクをすることを外国人は奇異に思っていた。今では世界標準となってきたマスク着用の理由が、自分たちがマスクをつけないことで人に移してしまったら、という心持ちだと知り、始めて理由がわかったという言葉に、唖然としたが、それが個人主義の思考なのか、しかし、キリスト教理念のある西洋文化は「あなたの為に」For others が当たり前なのだと思ってきたし、私の学校のキリスト教を基盤とした教育理念として教えられてきたのが特殊だったのか、少なからずショックであった。全ての人が同じ考えとは言わないし、日本人の中でも様々な人がいることも承知しているが、人の為にという考え方は特殊だと初めて気づかされた。
今、便利になった分、今まで当たり前だと思ってきたことが、そうではない、モラル、道の考え方の希薄が生まれているように思う。我々が稽古をする、師匠から習う行為がいつの頃から、レッスンを受けるというのと入れ替わりつつある様に感じ始めている。日本文化を継承し学ぶ行為は、そのものを習い受け継ぐだけでなく人としての道、師匠の生き様の姿を真似ぶことから学ぶのが習いであり稽古だとの考えは今の時代には受け入れられないのかもしれない。茶道人口が減少していると危ぶまれるが、自然淘汰で本来の姿に戻る過程ではないかとも思われる。花月が流行る時代には茶道は廃れると昔からも言われてきたことらしい。
今朝、国会議員が議会審議の最中に、携帯を弄っていたり、関係のない動画を見ているとか、本を読んでいるということが問題になっていた。どこの世界でも同じなんだと、これは人としての由々しき問題だと。もちろん禁止事項として、注意の対象ともなっているのにも関わらず、大人の、しかも国会議員は国民の代表なのにと、腹が立つと同時に呆れて開いた口が塞がらない。
今はお稽古でもズームという便利な活用法を駆使して、少しでも臨場感を持たせて茶会、講座と新しい可能性が生まれて感謝している。もちろん、主催者から、録画、録音は禁止と暗黙の了解のもとでもあるし、もちろん書面でもお願いされている。しかし、要請されていないならやっても良いのかという問題は、道を学ぶ者にとっては暗黙の了解であると思うのだが、思い込みは禁物と思い知らされた。
本来お稽古は、師匠のもとに通って学ぶことが前提で、勿論各自の覚書ノートは作るが、「茶の湯とは心に伝え、目に伝え、耳に伝えて一筆もなし」と言われて育った世代としては、安直に人の点前を携帯で録画するなどは考えられない。今はインターネットを使って多くのお稽古場を覗くことができ稽古場を探す者には便利だと思うし、それぞれの頑張る姿を見るのはお互いの励みになる。が、、、
これ以上の私見は自分の中に止めるが、いまの安直な風潮が「茶道は廃る」の一端にならないか心配している。利休も自分の没後100年したら、茶の湯は盛んになるが、本来の姿、志は廃れるだろうと予言していたことが、再び起きているのではないだろうか。