暑さもすこし和らいだ8月25日、26日の両日、干菓子和三盆作りのワークショップを開催しました。2日間で4クラス、定員を超えの参加者が集まり、自分で作った出来たてほやほやの和三盆を堪能しました。お店で買ったものととの違いは、乾燥前なので口に入れるとシュワーッと解ける上品な甘さ。作り立てならではの体験でした。 講師は和三盆の産地香川県よりお呼びした木型工房市原の上原あゆみさん。石田ひかりに似た可愛い方でした。 彼女の父君市原吉博氏が彫りだす香川県伝統工芸品の菓子木型を使い、失われつつある貴重な日本の伝統を少しでも多くの人に知って欲しいと3年前から「豆花」を開設し、地元起こしのイベントで子供から大人まで楽しめる干菓子作りや木型彫のワークショプの講師として活躍、また日本各地へ木型,和三盆の紹介に奔走されている。今回は茶の湯には欠かせない干菓子,和三盆を自らの手で作る海外で初めての講習会として貴重な体験とあいなりました。 実はニューヨークで数年前にドコモのプロモーションのためにドコモ茸の木型を作成し干菓子を目の前で作ってみせる試みのために材料の和三盆を数キロ持ち込みをした際に、検疫で他のホワイトパウダーと間違えられて検査ために没収されてしまいイベントでは作る事ができなかった経緯があったそうです。ですから今回はそれを想定して、前もって郵便で送ることにしました。 10キロの和三盆、もしこれが検査されたらまた大変な事になっていたかもしれません。 兎に角、今回は無事でした。 市原吉博氏は全国で数名しかいないと言われる菓子木型職人として1997年に香川県伝統工芸士に認定され、2004年には現代の名工にも選ばれ、2006年には黄綬褒章を受賞されています。 また東京芸術大学で非常勤講師も務められています。 和三盆も木型も200年ほどの歴史がありますが、今までは菓子に焦点が当たり木型は陰の存在とされてきたが、木型あっての美しい菓子が生まれる事に気付いた人々により、現在は積極的に様々な分野のアーティストとのコラボレーションを通して木型の美しさ、和三盆の美味しさを日本が誇れる伝統工芸、芸術の一つとして世界中へ発信しています。 和三盆生産は日本独自の砂糖として江戸時代に香川県に定着,現在は2軒の讃岐和三盆、1軒の徳島阿波和三盆の3カ所のみで生産されているそうです。 特に讃岐和三盆は上品な純白の和三盆として、茶の湯の菓子作りには欠かせない材料として菓子職人からの絶大な支持を受けています。製法も機材も江戸時代のままの重要文化財を使っての作業だそうです。 日本の伝統を継承し伝えるためには日本に留まらずに、日本人のいる所、海外に於いても日本の伝統が引き継がれる事を微力でもできればと思いました。
一週間掛けて茶室の襖、障子、太鼓襖が全て新調されました!! なにぶんも古い建具なので開けてみないとどうなっているのかわからないと言われ乍ら開いてみると。。。 案の定、中の建具は痩せて新しい和紙を貼って和紙の力に耐えられるか心配しましたが、そこは ベテランの関地さん、寸分の狂いのない仕上がりで美しくよみがえりました。 襖は、骨縛りで薄い和紙を骨組み全面に貼り付け、美濃掛けでみの虫のように3枚重ねで上の骨と横枠に糊付、更に美濃縛りで全面を貼っていく。更にその上に泛(うけ)と言って全体を覆うように張ります。合計6枚の種類も強さも違う和紙を張り合わせるので丈夫でしなやかな目に見えない所の工夫です。 各工程に於いて乾いてから次の行程に移るので1日一工程くらいの進み具合。 完全に乾いてから、角に切り込みを入れて収縮するのを調整する。 更に貼り合わせた紙の糊代の部分を出刃包丁で削り落とし余分な厚みを取り除く。 京唐紙の模様を二枚の襖に合わせ、間違いなく大きさに切っていく。全面に薄く解いた糊をかけて、襖の枠に貼っていく。 あとは細かい所の処理をして外枠を元に戻しますが、この行程が古い建具には力がなくよじれを調整して仕上げ。 取っ手を付けて出来上がり。 何層もの紙を貼る事で出来上がりはふっくらとした感じ。唐紙の張替えも美濃縛りの上らから次は行なえば良い事で経済的。 障子は手漉きの美濃紙を枠二段の幅に切りそろえ、石垣になる部分を計算して張り合わせる作業をします。 4枚の障子を床の間に近い方の下段から貼り始め、4枚の石垣が続いて見えるように貼り合わせていきます。各段をずらし乍ら石垣を作ります。 裏千家では桟と同じ太さで枠の余分な紙を切り落とします。 表さんでは障子の枠一杯に紙を貼るそうです。 石垣に互い違いになっているのがわかりますか? 太鼓襖は奉書で貼ります。中の桟が透けて見えるように、引き手は塵落ち。
人との出会いと別れは人生につきもの、天国へ旅立ち別れたひと、第二の人生を始めるために第一歩を踏出した人、病魔と戦い生死の境目から生還した人、先週から人生の色々な場面に出くわしましました。 肩をすれ違って行き交うよりもっと濃い感情を持って人と触れ合って行く、どこにいても心のどこかで引っかかるそんな繋がりを持って、それぞれの場所でそれぞれの人生を歩んでいます。 今、京都から茶室の襖の張替えに墨仙堂の関地さんが我が家で作業をしています。一週間の予定で到着したその日から仕事の準備をし,翌日には時差ぼけを克服して作業が始まりました。 ここでの仕事が終わると、ロサンゼルスカウンティーミュージアムの日本館で購入した円山応挙の群鶴図屏風の応急修復処置をされてから日本へ戻られます。 このような国宝級の美術品修復を手掛ける方に茶室の修理をして頂けるのも、茶室が結んだ不思議なご縁です。 我々の茶室は人を繋ぐ縁結びの神が宿っているのかもしれません。 色々の方の話を聞くと茶室を通して運命の分かれ目のような出会いが起きているからです。 初めて日本から送られた理由も友好の証でした。1949年、太平洋戦争のあとです。 何故,茶室だったのか、そこを知りたいのですが、探る手だてが非常に少ないのです。 わかっているのは清水仁三郎の設計ということ、京都数寄屋師堀せいと残されていますが、今では存在していません。 解体した時の襖の下ばりの反古紙はおそらく昭和10年頃、東京のとある大きな病院の院長らしき人の執事の日記が使われていました。歴史に出てくる人物の名前が見え隠れし,その時代の様子を垣間みるタイムスリップのような日記です。 おそらく物があまり無い時代だったのだと思います。 関地さん曰く、外から見たら同じように見えても,見えない内側をきちんとすることで後世に仕事の足跡を残す、そんな仕事を残していきたいと。 糊の炊き方から、刷毛の使い方、行程を見ていると日本の伝統の職人技が如何に緻密で、見えない所にまで気を配っている事がよく見えます。 こういった伝統技術は一朝一夕にはできない,現場で何度も経験して初めて習得できる非常に感覚的な伝承だと思います。若い次世代の職人たちに是非伝えて、また彼らもしっかり習得して技術を繋いでいって欲しいと思います。